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楽園の色はブルー (本文14p〜16pあたり)

 何回目かになるか分からないため息をついたとき、突然、背後でガサッと草を払う音がした。
 潤はびっくりして目を見開き、振り返る。
(あっ?)
 真後ろの薄闇の中に、一人の男の姿が浮かび上がっていた。
 こちらをじっと見下ろしている、背の高い男。
 戸惑いの混ざった目。大人の分別を持っていながらも、どこか少年っぽさの残る眼差しは、生物の授業で三日前に見たものだ。
(熱帯雨林、の先生だ……)
 潤はドキッと胸を鳴らしながら、小野田という教師を見上げる。
 なにしているんだろう、と。今、潤の目の前に立っている小野田を見て、そう思わない者はいないだろう。
 彼は踝までの綿のズボンを穿き、長袖のシャツを肘まで腕捲りしている。片手に大きな虫カゴを持ち、もう一方の手で、自分の背丈以上もある捕獲アミの長い柄を、ひょいと肩にかけていた。
 まるで、夏休みに昆虫採集に駆け回っている、小学生のような格好だ。
「君は……ええと、うちの生徒だよね。顔は覚えているんだけど、どのクラスだったかな」
 顎に手を当てて考え込んだ小野田に、潤はおずおずと答えた。
「二年五組の……染川です」
「染川君。ああ、そうだ、文系の合同クラスの子だね」
 日の落ちた時間に、生徒が河原で一人きり。
 少し怪しまれて、なにか注意されるかと思ったけれど、小野田の口調はあくまでもやわらかで、潤をホッとさせた。
「家はこの近く?」
「はい、そこの土手を降りたところ」
 潤が目で差した先を追って、小野田が自分の背後をしきりに振り返る。彼が手にしている虫カゴの中で、小さな白い羽の生き物が数匹、忙しなく羽ばたいているのが見えた。
「それって、蛾?」
 潤の視線に気づき、小野田は隣にやってきて腰を下ろした。
「これ? 違うよ、夕方になると元気に飛ぶ蝶。ウラクロシジミっていうんだ」
「捕まえにきたんですか? 学校から?」
 授業かなにかで使うのだろうかと思って問いかけたが、彼は首を横に振った。
「いや、自分の部屋から来たんだ。僕が住んでいるマンションはここから歩いて十分くらいのところでね。最近、腕がなまっているみたいだから、ちょっと捕獲の練習に」
 小野田はにこりと目を細めて、両手で大事そうに、潤の目の前に虫カゴを掲げてみせた。
「ほら、これだけ採ったんだ。なかなかすごいだろう?」
「……」
 自慢そうな様子に、潤は面食らいながらも、思わず噴き出しそうになった。
 確か、自己紹介のとき、今年で二十八歳だと言っていたのに。
 大人の小野田が、長い捕獲アミの柄をブンブンと振り回して、子供のようにこの河原でうれしそうに蝶を追いかけていたのかと想像したら、なんだかおかしかった。
 自分より十も年上だなんてとても思えなくなって、つい、友達と話すときのように気軽な言葉遣いになる。
「捕獲なんて言うと、狩人みたい。そういうのって、練習しないとだめなもの?」
「もう研究もやめたしね、こういうことはしないでおこうと思っていたんだけど。よく考えてみたら、僕は、他に趣味っていうものがなくて」
 肩をすくめて苦笑する彼の方も、ざっくばらんな話し方になったので、潤は安心して微笑んだ。
「ここって田舎だから、夜、遊びに行くところっていうのもないもんね。暇だったら、映画のDVDとか借りてきて観るくらいしかないかな。そうしたらどう?」
「僕は一人暮らしなんだけど……ということは、部屋で映画を一人で観るの?」
 小野田は不思議そうに瞬きして問い返してくる。
「映画が終わったら、そのまま一人で寝る?」
「そうだよ」
「そういうのはしたことがないんだけど……楽しいのかな? 今度やってみることにするよ、教えてくれてどうもありがとう」
「ぷっ。やっぱり、先生ってすごくおかしい」
 真面目な顔で礼を言われて、潤はついに噴き出した。
 クスクス笑っていると、先ほど母親と言い争いをして家を飛び出してきたときの嫌な気分が、きれいに洗い流されて、心がふわっと軽くなるように感じた。
 三日前の、生物の授業が目の前に鮮明に蘇る。
 小野田がマレーシアと蝶の話を、一時間も続けたこと。この、夜になっても灯る光の少ない、小さな寂れた田舎町のことを、熱帯雨林と形容したこと。
 あのときと同じように、小野田の話をもっと聞きたいという気持ちになった。
「ねえねえ、先生」
 潤はひとしきり笑ったあと、隣の小野田の方へ顔を上げた。
「先生って、蝶の研究をしていたって言っていたよね? 蝶の標本とかも作っていた? あれって、作るとき、どうするの?」
「ああ、まずは殺すんだよ」
「殺す……って、それはそうだよね」
 淡々とした口調に、少しドキリとした。
「でも、どうやって?」
「知りたい?」
 小野田は笑いながら、虫カゴの蓋を開けた。
 青い網でできたその中に片手を突っ込み、そっと白い小さな蝶を取り出した彼は、片手で握り潰せそうにやわらかな二つの羽を、指で慎重に一つにまとめて持った。
 もう一方の手をその蝶に近づけ、親指と人さし指で、黒く細長い胴体を摘まむ。
「指で、こうやって押して」
「えっ…?」
 潤は思わず、目を大きく見開く。
 蝶の黒い胴体が、苦しそうにぐねぐねとうごめいていた。
 小野田はそれに構わず、親指で、細長いそこを上からグッと潰すような動作をする。
「こうして腹を押すとね、蝶は簡単に死んでしまうんだ」
「あっ、だ、だめだよ、可哀そうだからっ!」
 潤は慌てて、彼の方へと手を伸ばした。
 潤に捕まらないように、ひょい、と肩を引いた小野田が、いたずらっぽく口の端を上げる。
「……なんてね、殺さないよ。この蝶たちは、標本にするつもりで捕まえたんじゃないから」
 潤がどんな反応をするか、からかっただけだと言う彼に、潤はホッと肩で息を吐いた。
「ほんとに?」
「もちろん。ちゃんと逃がすよ、ほら」
 彼が手を離すと、小さな蝶が指先から飛び立った。
 ひらひらと、白い羽が夜空に舞う。
 残りの蝶はどうなるんだろう、と心配して見つめ続けていた潤の目の前で、殺さないことを証明するためか、小野田は脇に置いてあった虫カゴの蓋を開けて、全ての蝶を逃がした。
 彼の両手に持たれた網の中から、六羽ほどの白い蝶が、暗い河原に舞い上がる。
 まるで、白く可愛らしい春の小花が、河からの風に吹かれて、ふわふわと空中に漂っているみたいに見えた。
「うわ、きれい」
 暗闇の中に浮かんだ白い羽に、潤は息を呑んだ。
「蝶の舞う姿っていうのは、本当に美しいよ」
 同じように隣で見惚れている小野田の言葉に、うっとりしながら相づちを打つ。
「うん、そうだね。あの蝶たち、まるで宇宙まで飛び上がっていくみたいだ」
「……君、ずいぶんとロマンチックなこと言うね」
 ふと横を見ると、感心してこちらをじっと見つめている小野田と目が合った。

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